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札幌地方裁判所 昭和41年(む)1050号 決定

被疑者 草刈俊雄

決  定 〈被疑者氏名略〉

右の者に対する業務上過失傷害、道路交通法違反被疑事件につき、昭和四一年八月二五日札幌地方裁判所裁判官下沢悦夫がなした勾留請求却下の裁判に対し、札幌地方検察庁検察官岩田農夫男から適法な準抗告の申立があつたので、当裁判所は、つぎのとおり決定する。

主文

本件準抗告の申立は、これを棄却する。

理由

一  本件準抗告申立の趣旨および理由は、要するに、被疑者は、罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由があるのみならず、刑訴六〇条一項二号、三号に該当することが明白であるのに、右各号に該当しないとして勾留請求を却下した原裁判は、判断を誤まつたものであるから、右裁判を取消したうえ、勾留状の発付を求める、というに帰する。

二  そこで、一件記録を調査すると、被疑者が勾留請求書記載の被疑事実にそう罪を犯したことを疑うに足りる相当な理由の存することは、優に肯認できるところである。

三  よつて、進んで、検察官主張のごとく、本件被疑者につき刑訴六〇条一項二号、三号に該当する事由が認められるか否かについて考察することとする。

(一)  本件事犯は、自動車の運転を業とする被疑者が、昭和四一年八月二二日午後八時三五分頃札幌市中の島二条七丁目先路上付近において普通貨物自動車を運転走行していた際、いわゆる酩酊運転をなし、かつ、前方注視義務等を怠つた過失により菅原吉男運転の普通乗用自動車と衝突事故を発生せしめ、同自動車の乗客前林ミヨ子に全治約五日間を要する傷害を与えたうえ、同女に対する救護義務を履行しなかつたという内容のもので、事案の罪質態様が相当重大かつ悪質と評価すべき性格を有することは否定しがたい。

(二)  あらためていうまでもなく、刑訴六〇条一項二号、三号所定の事由の存否を判断するに際して、当該事犯の罪質の軽重が重要な指標となるものであることは、勾留制度ないし捜査手続の機能、構造等に関し、いかなる基本的立場に立つにせよ、到底否みがたいところであろう。その意味において、本件のごとく、いわゆる重大事犯のひとつと考えられるものにあつては、その起訴価値がきわめて高いことにかんがみ、勾留理由の存在を主張する捜査官の立場に十分な理解と尊重をはらうべきであるといえよう。

しかし、他面において、現行刑訴が捜査段階における人身の拘束につき、すこぶる慎重な配慮をめぐらせ、ことに勾留請求に対する司法審査の手続全般を通じ、裁判官による司法的抑制機能に最大級の期待を託する建前をとつていることにも留意しなければならない。このことは、捜査機関の捜査権の行使にともなう不当な人権侵害のおそれをできるかぎり迅速的確に防圧する重大な使命を、直接令状審査の衝にあたる裁判官に与えていることを意味するもので、この点は、準抗告裁判所としても、原裁判官の判断の当否を吟味する場合、当然考慮を要するところであろう。

(三)  叙上のごとき観点に立脚して、以下、本件についての具体的な検討にはいると、まず、検察官が罪証隠滅のおそれを力説している二点、すなわち、『(1) 被疑者を在宅のまま取調べた場合、本件犯行当時における被疑者の飲酒時間飲酒量および酩酊程度について正確な証拠を収集することに重大な障害をもたらす懸念があること、(2) 右同様被疑者を釈放した場合、本件事故発生当時の被疑者および相手方自動車運転者の運転状況、交通状況等に関して、目撃者の供述証拠を収集し、事案の真相を究明することが妨げられるおそれの強いこと』の両者ともに、いまだこれを肯定するに足りないものと考える。

1  第一に、右(1) の点についてであるが、本件被疑者は現行犯人として逮捕された直後、警察官から飲酒検知管による呼気テストを求められた際、これに応じなかつたため、酩酊度の科学的判定がなされないままに終つたのみならず、「酒酔い・酒気帯び鑑識カード」、司法巡査佐々布哲男作成の「捜査報告書」の記載からもうかがわれるように、本件運転当時の被疑者の酩酊度は相当高度であつたものと推測されるにもかかわらず、被疑者は数十分前に職場の同僚宅で清酒約一合を飲んだにすぎない旨供述しているだけであつて、飲酒状況の真相を隠ぺいしている疑いが濃厚である。しかも、本件において、酩酊度の真相究明が、捜査上はもとより、将来予想される公判段階での検察側の立証活動にとつて、すこぶる重要な意義を有することは多言を要しないところである。

しかしながら、ひるがえつて、酩酊度、より正確にいうと、身体に保有するアルコールの程度の判定については、今日ひろく用いられている飲酒検知管による測定方法のみが唯一絶対の科学的な判定方法ではなく、ある程度専問的な知識・経験を有する者が精密に酩酊者の言動、感覚面の反射力の状況、意想状況等を観察診断することによつても、かなり高度の科学的信頼性を有する判定が可能であり、本件被疑者の検挙・取調に当つた警察官がこの点について想いを至らせていたならば、迅速に、刑訴二二三条一項所定の鑑定嘱託手続をとり、しかるべき警察部内の鑑識担当技官もしくは近隣の医師等の手を借りることによつて、相当客観性のある科学的採証措置を講ずることが可能であつたと考えられる。しかるに、かような採証作業が必らずしも十分に行なわれなかつたからといつて、酩酊度についての供述証拠の収集に多くを求めようとするのは、公正・識実に科学的な捜査の徹底に努むべき捜査官のあり方として、多分に疑問があるばかりでなく、検察官が被疑者の通謀工作を憂慮している当夜飲酒を共にしたといわれる職場の同僚についても、被疑者が逮捕の翌日の取調の際その人物を特定するに十分な供述をしているのであるから、その段階でできるかぎり速やかに右同僚の供述を求める等の手続を講ずることにそれ程の困難がともなつたとも思われない。さらに、被疑者がなお他の飲酒先におもむいた疑いが強く、これら他の飲酒先の者と通謀するおそれが存する旨の所論について考えるに、およそ罪証隠滅のおそれがあるといえるためにば、単に抽象的なおそれでは足りず、そのおそれが何らかの具体性個別性を帯びたものであることを要するものと解すべきところ、現資料の段階では、具体的にいかなる飲酒先におもむいたか、いまだ客観的な推測を可能ならしめる何らの資料もなく、所詮は、被疑者の供述に依存する度合が至つて濃厚であるが、かような一種の自白追求の手段として被疑者の身柄拘束を是認する根拠となしえないことは言をまたず、結局、右(1) の所論をもつてしては、勾留請求を肯定する理由となしがたいものというほかない。

2  第二に、右(2) の点について考察するに、衝突前後の状況に関する被疑者の供述が前後一貫せず、ことに、相手方自動車との間にバス様の車両が走行ないし停止していたか否かの点についての被疑者の供述がすこぶるあいまいであつて、前記菅原吉男の供述内容との間にかなり顕著な矛盾の存することは、検察官指摘のとおりである。そして、この点につき事の真相を明らかにすることが、本事犯のうち、業務上過失傷害の部分の全貌を把握するうえでの重要事項であることもまた、まさに検察官の主張するとおりであるが、被疑者が目撃者等と通謀工作を企てるおそれがあるとの論旨は、あまりにもその根拠が薄弱であるといわざるをえない。けだし、そもそも、交通事故を発生せしめた自動車運転手が、加害者として官憲の嫌疑を受ける立場にある場合、とくに自己の親族・知人その他何らかの意味で自己と利害関係を共通にするところがあつて、自らに有利な供述を期待できる者が現存する場所的状況下にあつたような特別事情でもあれば格別、そのような特別事情が存しない際に、強大な権限と大規模な機動力を有する捜査官による目撃者の探知活動や採証作業に障害を与えるごとき工作に訴えること自体、およそ現実的可能性が皆無にひとしいといつても過言ではあるまい。そして、本件被疑者の場合、右に述べたような特別事情の存在をうかがわせる資料はまつたく存しないのであるから、右(2) の所論は、到底首肯することができない。

(四)  最後に、検察官の所論中、逃亡のおそれがあるという部分に対する判断に移るに、所論の要旨は、被疑者は両親兄弟と同居して通勤している独身者であるが、本件のごとき事犯については、近時厳罰に処せられる事例の多いことが頻繁に報道されているので、これを怖れて被疑者が所在不明となるおそれが多分にあり、現に、被疑者が救護義務不履行(いわゆる「ひき逃げ」)の犯意を否認している事実は、右の懸念を深めるゆえんのひとつである、というにある。

たしかに、被疑者は、救護義務不履行の点につき、その犯意を否認しており、また、検挙直後警察官の取調に対し、きわめて挑戦的反抗的態度に出ていることは、一件記録の随所に散見されるところであり、被疑者を在宅のまま取調べる場合には、その取調にかなりの難航をきたすおそれのあることは否定できないと思われる。しかし、被疑者は、当二四才の独身者であるとはいえ、現住居に両親のほか兄一名妹二名と同居し、高校卒業と同時に自衛隊員となり、昭和四〇年一二月末頃その職を辞して以降、畠山工務店に自動車運転者として通勤稼働している者で、これまで道路交通法違反の罪で罰金刑に処せられた前科二犯のほかには何らの処罰歴もなく、その年令家庭環境、生活歴、勤務状況等にかんがみると、検察官主張のように、厳罰をおそれて所在不明となるおそれがあると即断するのは、いささか早計のそしりをまぬがれない。単に、任意捜査では、取調に渋滞をきたすおそれがあるということから、強制捜査を許容する事由となしえないことはもとより当然の事理に属するので、逃亡のおそれを理由とする検察官の主張も採用できない。

四  その他、一件記録にてらして精査しても、原裁判には、違法ないしはその判断を不当であると目すべき点が存しないので、本件準抗告の申立は、その理由がないものとして棄却すべく、刑訴四三二条、四二六条一項にしたがい、主文のとおり決定する。

(裁判官 辻三雄 角谷三千夫 新村正人)

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